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アルコール関連問題

裁判事例

熊本大学医学部・事件のあらまし

熊本大学医学部1年 吉田拓郎さん
熊本大学医学部漕艇部 急性アルコール中毒死事件のあらまし

1999年6月6日早朝、20歳になったばかりの熊本大学医学部1年生・吉田拓郎さんが急性アルコール中毒による吐物吸引窒息で亡くなりました。死体検案時の血中アルコール濃度は5.5mg/ml。法医学書では4.5mg/ml以上で死亡としており、驚くべき高濃度でした。その後の再検査では、さらに高い数値(大腿部の静脈血で8.1mg/ml、脳脊髄液では9.6mg/ml)が検出されました。

拓郎さんは前夜、医学部学友会漕艇部の新入生歓迎コンパ(二次会)で、医学部上級生とOB医師から焼酎の「バトル(早飲み競争)」を次々としかけられて、1時間ほどの間に、25度の焼酎を8合以上(血中濃度5.5mg/mlから推定)飲まされました。「バトル」とは、1対1または集団でコップに注がれた焼酎などの酒を飲み干す早さを競うもので、過去にも同部新入生歓迎コンパでたびたび行なわれてました。負けると再度競争をさせられ、立て続けに飲まされることになります。しかも上級生は、新入生には内緒で水を飲んでいる場合が多く、新入生が勝つことはまずありません。実際、拓郎さんの場合も対戦相手の上級生のうち水を飲んでいた者もいました。「バトル」が拓郎さんの死を招いたことは明白です(→傷害致死罪に該当)。

しかも上級生は、コンパで多くの新入生がつぶれる(高度の酩酊状態に陥いる)だろうと予期して、用意周到な準備を行ないました。まず、つぶれた新入生を運びこむ部屋(新入生のアパート)をあらかじめ決め、段ボールや新聞紙を敷き詰めて吐瀉物に備えていました。次に、運び人と車の準備。そして、二次会会場で新入生は、財布や携帯電話などの貴重品、靴、上着を取り上げられたのです。また、会場には嘔吐用のビニール袋が用意されていました。

拓郎さんは二次会が始まって1時間ほどでつぶれ、OB医師が状態をチェックして「もう飲ませないほうがいい」と判断しました。会場から車に運んだ上級生たちも名前を呼んだり頬を叩いたりしましたが、反応がなく、昏睡状態にあることは明らかでした。5年生が救急病院に連れていくよう指示。道案内まで同乗させたのに、運転手は「毎年病院沙汰になっているから」「面倒だから」と従わず、「病院に連れていかなくても、なに死にゃせん」と同乗者を説得して、用意されていたアパート部屋に運んでしまいました。

OBでもあり部長である山本哲郎教授、部の幹部(学生)、「ドクターストップ」をかけたOB医師、車に運びこんだ上級生、病院に運ぶよう指示した5年生、車で潰れ部屋に運んだ上級生……これらの人々は、拓郎さんが高度の酩酊状態にあったことを知っており、保護する責任があったにもかかわらず、結局は拓郎さんを他の新入生とともに潰れ部屋に放置したままにしてしまい、死を招いたのです(→保護責任者遺棄致死罪に該当)。

しかも部長の山本教授は説明会などで、「口から少量の血液が漏れていた」「死因は確定できていない」「その日は拓郎くんは体調が著しく悪かった」などと、事実をねじまげた発言をし、死の原因が拓郎さん自身にあるかのように吹聴して、故人の名誉を侵害したのです。二次会の様子や死に至った経緯を聞きたいというご両親の願いも拒みました。

ご両親は数か月かけてコンパ参加者47名と直接面談し、独自の調査をしました。その結果をもとに、拓郎さんが亡くなって半年目にあたる1999年12月6日に、急性アルコール中毒死としては全国で初めての刑事告訴・賠償請求訴訟を起こし係争中です。

 

刑事告訴

●傷害致死告訴事件(被告:拓郎さんに「バトル」をしかけた上級生5名・OB医師3名)

●保護責任者遺棄致死告訴事件(被告:拓郎さんの状態を把握しており、保護する立場にあったのに、適切な保護を怠った上級生8名・OB医師1名・教授1名)

→熊本県警、熊本地検が告訴を受理。

→2002年12月27日、嫌疑不十分で不起訴。

→熊本検察審査会に申立て。

→残念ながら、2003年9月、不起訴相当と決議されました。

賠償請求訴訟

●コンパを主催した漕艇部責任者。

●コンパを準備し行なった者。拓郎さんに「バトル」をしかけ、もしくは上級生に水を用意して「バトル」を幇助(手助け)したり、拓郎さんに焼酎を注いだ者。

●拓郎さんが急性アルコール中毒の症状を呈し、救急措置を要する状態であることを認識しながら、適切な処置をしなかった者。

●救急医療に運ぶことを命ぜられながら実行しなかった者。

●保護する連帯責任があったが適切な治療を行なわなかった者。

上記に該当する訴訟対象者:上級生15名、OB医師3名、教授1名

→2004年12月17日、第一審敗訴。

→直ちに、福岡高等裁判所に控訴。

→2006年11月14日、福岡高裁で勝訴判決。

8人が「安全配慮義務」に違反したとして損害賠償を命じる。

→2007年11月8日、最高裁が被告らの上告を棄却し判決が確定。

何故訴訟に踏み切ったのか
高裁逆転勝訴までの経緯